一人さみしい夜はついつい嫌なことを考えてしまう。
妻の心にしっかり寄り添えていたのだろうか・・・
末期がんで回復は見込めない。
妻の「家に居たい」という希望はかなえてあげることはできたが・・・
みぞおちから下は麻痺し、身体は思うようにならない。
人生の終焉を待つ闘病生活。
妻も意識はしたくないのだろう。
そこには触れない。
できるだけ「終わりを待つ」ということには触れないのがお互いの暗黙の了解だったと思います。
私は、毎日、介護と子育てに追われ、ただ淡々と一日を過ごすことが多かった。
闘病中は、妻と一緒にいる時間が他の夫婦よりも長かったかもしれない。
だけど、しっかりと妻の心に寄り添えていたのかな。
最後の抗がん剤治療、しっかりと反対すべきではなかったのか。
反対しないことが、結果的に妻を苦しめることになってしまったのではないか。
「治療をしたい」という妻の後押しをしたといえば聞こえは良いが、その判断が、妻を苦しめていたのではないか。
正直、最後の抗がん剤治療については、先生とも相談し、悩んだのは事実。
しかし、反対すればあとは「死を待つだけ」という妻へのメッセージにもなってしまう。
妻自身「先がないこと」は理解している。
だけど、具体的な数字などの結論を出すことはできるだけ「先送りしたい」というのが妻の希望でした。
採血での貧血の進み具合や炎症の数値をみれば腫瘍の勢いが強いことは確実。
抗がん剤があまり効いていないことわかっていた。
だけど治療をしなければ、腫瘍の勢いは強まるだけだし、2回目の抗がん剤治療では副作用があまりでなかったため、妻の「治療したい」という思いを後押しする形となった。
最後は腫瘍が尿管を圧迫し、水腎症、さらには腎不全の状態になっていたので、抗がん剤治療をやってもやらなくても結果は変わらなかったのかもしれないけど・・・
夜9時に子供を寝かしつけると、その後は妻との二人の時間でした。
一緒に、ノンアルコール飲料を飲んだり、雑談したり、お笑い番組で笑ったり、ドラマを見たり・・・
妻が亡くなってからは、一人の時間になりました。
来る日も来る日も、孤独な時間です。
どうしても、妻に対する後悔や罪悪感のような感情が沸き上がってきます。
「心にぽっかりと穴が開く」って言いますよね。
心って本当に穴が開くんですね、人生をかけて守るべき家族を失うと。
最後だから、何か残したいことをさせてあげたい。
最後だから、何かやってほしいことをやってあげたい。
そう思ったこともあったけど、それは死に向かうことを意識させてしまうことだから出来なかった。
終わりを待つ人生なんて苦しすぎるし・・・
ただただ日常を、何も変わらない日常を送らせてあげることしかできなかったな。
息子と二人で、外食したり、買い物したり、旅行したり・・・そんなことにも罪悪感を感じたりしてしまう。
気にする必要はないのでしょうけど「こんなに楽しんでいいのかな」と感じてしまう。
妻が亡くなってから一年以上経ったので、少し薄まってきた気はします。
だけど、心って難しいですね。
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